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米国の金融政策 米国では、連邦準備制度理事会(FRB)が開く連邦公開市場委員会(FOMC)が最高決定機関で、少なくとも何に8回開催される。FOMCへの信頼度は絶大なため、市場に寄せる関心はたいへん大きなものである。 87年から5期20年にわたってFRBの議長を務めたグリーンスパンは、市場を混乱させない名手といわれてきた。彼の発した意見が市場に誤解されて、自分の思惑とは違った方向に相場が動き出しても、その方向修正に必要なマイルド感あふれるコメントは絶品で、FOMCではなく彼が一人ですべてを決定していると思っていた人もいた。 いずれにしても米国の金融政策は、基軸通貨であるドルの価値を左右するため、為替相場では注目度がとても高いものとなっている。また、米国の中央銀行にあたるFRBは、日本銀行のように一つの銀行の下に各地域の支店があるという組織ではなく、12それぞれ独立した地区連銀の上にこれを統括する組織として存在している。 FOMCのめんばーは、7人の理事と各地域連銀の総裁5人の計12人で構成されている。ニューヨーク連銀総裁以外は、残り11行の総裁の持ち回りとなっているため、議決権のある地区連銀トップの発言には、日ごろからたいへん注目が集まることになる。
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Fiscal Multipliers and Policy Coordination Gauti B. Eggertsson 要約 この論文はゼロ名目金利での財政政策の効果の大きさについて論じる。私は価格の硬直性と合理期待を取り入れた確率的動学一般均衡モデルを分析し、また政府が将来の政策についてコミットできないと仮定する。実質政府支出 (real government spendingは公的部門の消費の増加によって需要を拡大させる。赤字財政支出 (deficit spending)はインフレ予想を醸成する事によって需要を拡大させる。政府支出(実質および赤字財政)の1ドルの支出がどれだけ産出をどれだけ増加させるかを表す政府支出乗数を導く。金融政策と財政政策の協調の元では、実質支出乗数は3.4であり、赤字財政乗数は3.8である。しかしながら、中央銀行が独自のゴールを持ち、政策協調のない場合には実質支出乗数に変化はないが、赤字財政乗数はゼロになる。協調失敗 (coordination failure) は日本で、大恐慌の時に較べて最近の財政政策の効果が弱かった理由を説明していると思われる。 1 Introduction デフレーションの局面と、インフレーションの局面とでは中央銀行の独立性の役割が異なる、ということを理解しておく事が重要です。インフレーションの局面において、それはしばしば政府負債の過剰な貨幣化を伴うものですが、独立した中央銀行の神髄は政府に対して拒否を突きつける能力のことです。しかしながら、長引くデフレーションの局面では極端な貨幣創造は問題になりにくく、中央銀行のより協調的なスタンスが求められるでしょう。 ---バーナンキFRB議長 2003年5月31日に本金融学界にて 協調、協調 もし金融政策がそれだけでデフレーションを終わらせる能力に欠けるのなら、答えは「あきらめる」ではなくて協調された金融・財政政策を試みることである。 ---The Economist社説 金融政策と財政政策のついての習わしとしていわれてきた事は次のようなものである*1。「不況への第一の防衛線は金融政策である。金利引き下げという中央銀行---連邦準備、ヨーロッパ中央銀行、日本銀行---の能力。実質金利の引き下げは企業や消費者が借金をし消費をすることを促し、それによって新たな雇用が生まれ、さらなる消費を刺激する、といったサイクルを生む。1930年代以来、この作戦は成功してきた。より具体的にいうと、金利の引き下げは過去30年において1975年、1982年、1991年の大きな景気後退からアメリカ経済を引き上げてきた。第二の防衛線は財政政策である。経済の落ち込みを防ぐのに金利の引き下げだけでは不十分な時には、政府は減税や自身の支出を増やすことで需要を拡大できる。この経済学者の間で共有されてきた習わしとは、ほとんどの景気後退に財政政策は不要であり、金利政策で十分である、ということだ。しかし、財政政策はいつでも武器庫には準備されているのだ。」 *1括弧内の一節は習わしについてのKrugman (2001)の要約である。 中央銀行が短期名目金利をゼロにまで引き下げた時、第二の防衛線が必要である。経済が過大なデフレーションに直面している時はなおさらである。多くの経済学者が、大恐慌からアメリカ経済を最終的に救い出したのは戦争による政府支出であったと考えている。その時には短期名目金利が数年の間、ほぼゼロであった。しかし、近年の日本の状況を見ると、財政政策の効果の大きさに疑問が持ち上がる。日本銀行は1998年に喚起名目金利をゼロに引き下げ、それ以来グロスの公的債務は今日ではGDP比150%を超えるほどに膨らんでいる。いくつかの「景気対策」をうったにもかかわらず、デフレーションは持続し失業率は高止まりしたままであった(もっとも最近のデータによれば、ついに日本経済が回復し始めたようだ。景気回復とその要因となった政策の役割についてはEggertsson and Estry (2005)を参照せよ)。標準的な財政政策および金融政策は低金利環境においてデフレを抑制し、需要を刺激するには不十分なのであろうか?日本の経験を教訓にして、何人かの経済学者が論じたように我々は伝統的なケインジアンの教えを覆さなければならないのだろうか?*2 *2例えばKrugman(2001)を参照せよ。 この論文では価格の硬直性を含んだ確率的一般均衡モデルを用いた理論的な観点から3つの疑問を論じていく。金利の下落は、金利の自然率(産出ギャップがゼロになる実質金利)を一時的に負にし、極端なデフレーションと産出の急落をもたらすような一時的な需要ショックが原因である。ここでは政府---財務省と中央銀行---が国債の発行を通じて将来の政策に対して独立にコミットすることができないと仮定する(Lucas and Stokey (1983)に従って、財務省は債務の名目額に対しては返済を保障できるものと仮定する)。この論文を通じて用いられる均衡概念はマルコフパーフェクト均衡(MPE)である。これはMaskin and Tirole (2001)が定式化して以来、ゲーム理論で比較的標準的な概念である。 この論文で、低金利環境で需要を増加させる財政政策の二つのオプションについて分析する。一つ目は実質政府支出、すなわち予算を均衡させたまま政府支出を増加させるもの。二つ目は赤字財政支出、すなわち政府の実質支出を一定にする減税および負債の増加である。この論文の中心的な結論は実質政府支出にしろ赤字財政支出にしろ、名目金利がゼロであっても、デフレを克服し需要を増加させることができるということである。二つのオプションのうち、赤字財政が、デフレを克服し産出ギャップを解消させ、社会的厚生を改善するという意味において、より効果的であることが分かった。この結論は伝統的な教えを擁護するものといえるだろう。 しかしながら、少なくとも3つの点で伝統的なケインジアンの教えと異なる点がある。まず一つは赤字財政政策は財政と金融政策が協調している時にのみ有効であること。仮に協調がなければ、効果はまったくない。これは近年の財政政策の効果が弱かった日本の経験を裏打ちするものである。財務省と日本銀行が協調したリフレーションプログラムの一環としての赤字財政の拡大を行わなかったためであると考えられる。これは大恐慌時の日本とアメリカで採られた協調的なリフレーションブログラムとは対照的なものである。第二に、政府の実質支出は、伝統的なケインジアンが考えるような「現在の支出を通じての効果」だけの効果しかないわけではないということである。将来の支出についての予測を通じても効果を発揮するのである。予測が固定された伝統的なIS-LMモデルとは対照的に、最適な財政政策の元では、現在の支出よりもむしろ将来の支出への予測の方が重要なのである。第三に、後に詳述するように、財政政策の効果の大きさは、従来の研究にみられるものに較べて遥かに大きく、金融政策と協調された場合にはより顕著である。 この論文でいう、金融政策と財政政策の協調とは何を意味するのか?制度的な構成は図1に示されている。二つの政府機関が存在する。中央銀行と財務省である。中央銀応は金利 itを決定する(もしくはマネーサプライ Mt)。財務省は政府支出 Ft と租税 T を決定する。財務省と中央銀行が共に社会的厚生を最大化するとき政策は協調された、と呼ぶ。それぞれの機関が独立に自分の目的を追求する時に政策は非協調的と呼ぶ。財務省は社会的厚生を最大化するが、中央銀行はより狭い政策目的を追求するような状況を非協調的と想定する。このような制度的な構成を中央銀行は「目標の独立性」を持つ、と呼ぶことにする。目標の独立性を持つ中央銀行はインフレーションと産出の目標からの乖離の二次関数を最小化するものと仮定するが、これはこの分野において比較的標準的な目的関数である。このモデルでの協調的・非協調的な解の最も大きな違いは目標の独立性を持つ中央銀行はその行動の財政的側面を考慮しないということである。 (はじめに引用した)バーナンキFRB議長が強調するように、中央銀行の独立性についての標準的な理解は政府の「負債の貨幣化」の望みに対して断固として拒否する能力のことである。標準的な動学的不整合性に対して、目標の独立性を持つ中央銀行が財政的側面を無視することは望ましい。なぜならば、公債の存在はインフレーションを起こそうとする非効率的なバイアスを与えるからである(Calvo (1977)を参照せよ)。このバイアスはこの論文においても成立し、名目的な状況(すなわちデフレショックがない状況)では社会的厚生よりも狭い目的を目標独立な中央銀行に与えることが最適となる。しかしながら、Bernanke (2003)が述べるように、デフレーション環境ではこのバイアスは成立せず、少なくとも一時的な協調---社会的厚生を最大化するという共通の目標をめざすこと---は利益をもたらす。実際、デフレショックを前提にすると、この論文の定量的な結果をまとめた表1と2で示されているように、協調は財政政策の効果は引き出すために決定的なものなのである。 表1と2は動的乗数の計算によって得られた財政支出の威力を要約したものである。表1の最初の列は名目金利をゼロにするようなショックを受けた場合の協調的な政策の乗数を示している。二つのシナリオでの均衡産出と財政支出を較べる思考実験を考えよう。シナリオの一つは安定化の財政政策(実質支出または赤字財政支出)を行った場合でありもう一つのシナリオは財政政策を行わなかった場合のものである。この二つの均衡を較べることで動的乗数を計算することが出来る。乗数は次の疑問に答えてくれる。(実質または赤字財政の)財政政策による1ドルは一つの均衡から別の均衡へと移る時に何ドルの産出を増加させるのであろうか?乗数の計算にあたって期待現在価値による支出と産出を求めた。これにより協調の場合には、実質政府支出の乗数は3.37であり、赤字財政支出の乗数は3.76であることがわかった。これらの乗数は伝統的なケインジアンの研究に見られるものよりも遥かに大きい。大恐慌時の財政政策についての論文で最も引用されているのがBrown (1956) である。彼の基準カリブレーションでは実質支出の乗数は0.5であり、赤字財政支出乗数は2.3である。これだけ大きな違いがある理由は古いモデルが予想の経路を無視しているからである。予想をモデル化することは政府支出の大きな効果を理解する鍵なのである。予想の経路とは次のようなものである。財政拡大が将来のインフレーションの上昇を予想させる。これが実質金利を減少させ支出を刺激する。そしてさらなる支出を刺激する将来所得の増加をも予想させるのだ。 表1の2列目には、ショックがなかった(よって金利は正である)場合の乗数を示してある。しかし、財政政策はショックが起きた時と同じ経路を辿っている。この場合、乗数は遥かに小さい。このことは財政政策は金利がゼロで、デフレーションにあるような時には極めて強力である。なぜなら金利がゼロの時には、インフレーション率と産出が社会的に望ましい水準よりも下回っているために、中央銀行はいかなる需要の増加も融通することが出来るからである。正の金利で中央銀行は逆にいくぶん財政政策を相殺する。 表2は金融政策と財政政策が協調していない場合の乗数を示している。この場合、実質支出の乗数は変わらないが、赤字財政支出の乗数は大きく変わる。協調なしでは赤字財政は効果がなく乗数はゼロになる。赤字財政はすべて未来の金利政策についての予想を通じて(すなわち未来のマネーサプライの増加の予想を通じて)機能するからである。協調された政策では、赤字財政支出は名目上の負債の増加を意味し、最適な裁量的金融政策はインフレーション予想の上昇をもたらす。なぜなら名目上の負債の増加は恒常的なマネーサプライの増加へのインセンティブと整合的だからである。しかし協調がない時には金融政策の財政的効果を考慮に入れずに狭義の目標を達成しようとするために、このリンクは切れてしまう。代わりにデフレショックがある時にはひどく部分最適な最良的金融政策の強いデフレバイアスが存在する。このことはBernanke (2003) が述べるようにデフレーションにおいては中央銀行により協調的なスタンスが求められていることを意味する。 対となる論文 (Eggertsson 2006) で、私は似ているが二つの重要な点で異なるモデルを考察した。その論文では実質政府支出の増加の効果は論じられていない。また金融政策と財政策の協調も分析されていない。関連する論文 (Eggertsson 2005) ではアメリカ経済の大恐慌からの回復を研究するために(協調に関する言及は一切ないが)ここで提示された理論的フレームワークを簡単にしたモデルを適用した。 ゼロ金利の研究には二つの流れがある。一つはゼロ金利を部分最適な金融政策と実質ショックによらない自己充足的な「悪性均衡」の一例として流動性の罠に理由を求めるものである。その解決法は自己充足的な「悪性均衡」を取り除く異なる政策ルールに政府がコミットすることである(このアプローチの主導的な例はBenhabib et al. (2002)とBuiter (2003)である)。もう一つはデフレーションとゼロ下限(zero bound)を実質的なショックへの非効率的な政策に理由を求めるものである。この場合、非効率な政策ルール(Eggertsson and Woodford (2003)を参照せよ)か、未来の政策への政府のコミットメント不足(Eggertsson (2006)を参照せよ)のいずれかがゼロ金利にいたる原因である。この論文は二番目の流れに沿っており、ゼロ金利は一時的な実質ショックに起因し、結果として得られる均衡は政府の政策的制約と未来の政策へのコミット不足のために部分最適になるというものだ。Krugman (1998)、Eggertsson and Woodford (2003)、Jung et al. (2006) 、Adam and Billi (2006)、Nakov (2006) によって強調されたように、最適な政策は目標よりも高いインフレーション率の実現へコミットすることであるが、この政策は政府が明瞭なコミットメントメカニズムを持っていなければ信認されないであろう。この論文では赤字財政支出は主に有用である。なぜならこのコミットメントの問題を解決する助けとなるからである。実質政府支出は主に効果的である。なぜなら金利がゼロに達した場合の総支出の増加による負のショックの影響を減少させるからである。Jeanne and Svensson (2004)とEggertsson (2006) はコミットメント問題を解決するための為替介入などの代替策について論じている。 物価水準と財政政策との関連を強調する研究が近年盛んになっている。この分野の研究はしばしば物価水準の財政理論(Fiscal Theory of Price Level (FTPL))と呼ばれている(Leeper (1992)、Sims (1994)、Woodford (1996)を参照せよ。初期の研究についてはSargent and Wallace (1981)を見よ)。FTPLとこの論文におけるアプローチとの大きな違いは政府の扱いである。FTPLを適用した論文は中央銀行を(時に部分最適な)金利フィードバックルールにコミットするものとして扱い、財政政策は実質政府余剰の(時に部分最適な)外生的な経路(典型的には実質政府消費のいかなる変化も除外している)として扱っている。これらの仮定においては、政府の予算制約を満たすように物価が変化しなければならないため、実質政府余剰は物価に影響を与えうる(なぜなら、政府のいかなる政策の変更も仮定(すなわち政府の政策へのコミットメント)によって除外されているからである。これとは対照的に、私の設定では、財政政策が物価水準に影響を与えることができるのは、政府の未来のインフレーション率の上昇へのインセンティブを変化させるから、もしくは実質政府支出が直接需要を増加させるからである。 6 日本とアメリカの大恐慌時代の協調 目標の独立性を持つ中央銀行を考えよう。中央銀行の総合的な目標と赤字財政の拡大によって予想を変化させることは簡単であろうか?そのようなレジームの転換は信認されるか?理論的な観点から、この疑問に対する答えは明白である。財務省と中央銀行との間の協調が---そう定義したように---社会的厚生の最大化を含むため、レジーム転換はいつでも信認される。よって主に課題となるのは、そのような政策が信認されるかどうかではなく、民間部門に対して、どのように政策の透明性、確認性を高めるか、である。このための一つの方法は中央銀行が財政政策をサポートする意図を説明し、国債の買いオペをすることである。原理的にはそのような政策は何ら効果を発揮しないはずである。なぜなら貨幣と国債は完全な代替物になっているからである。しかし、中央銀行が保有する満期となった国債の償還を財務省に請求しないというような、財政政策へのサポートを明確に発表したならば、インフレーション予想に大きな影響を与えることができるであろう。その効果は国債の購入から来るものではなく、国債の購入についての解釈の方法に起因する。よって、公開市場操作は中央銀行の目標の変更とデフレーションを終結させるために財政政策の協力するという決意のシグナルとなるのである。そのような政策の鍵となる要素は政策目標の透明性と、インフレーション予想を変化させる方法の透明性である。 過去においてレジーム転換と協調はデフレーションを克服する効果があったのであろうか?これには協調的解決法として興味深い先例が日本にある。1920年代の終わりに日本は恐慌に陥った。成長の停滞は深刻であった。GNPの成長は1929年には0.5%、1930年は1.1%、1931年は0.4%であった。同時にデフレーションは経済を不具にしていた。このことは表4に示されているように、いくつかのマクロ経済指標によって確認されている。1931年12月に高橋是清が大蔵大臣に任命された。高橋は即座に三つの行動を起こした。第一に、金本位制から離脱した。第二に、日本銀行に公債を裏書きさせることで金融政策を財政政策に従属させた。第三に、大規模な赤字財政を実施した。これらの政策は表4に見られるように劇的な効果をもたらした。全てのマクロ経済指標はこの論文のモデルによって予測された方向に変化した。財政赤字が拡大するにつれ、GNPは上昇し、デフレーションは収束した。同じ時期に、金利は歴史的に低位で、公債の金利は30年代の間ほぼゼロであった。名目利子率の引き下げに加えて、我々のモデルは他の政策の発動---公債の裏書きして賄われた積極的な赤字財政---はインフレーション予想の上昇を通じて実質収益率に大きな影響を与えたものと考えられる。この経路は大恐慌時代の日本でとられた三つの政策の成功を説明する潜在的な重要性を持つものである。1936年、高橋は暗殺され、政府の財政は軍の支配下に置かれた。これに続く軍拡は過大な政府債務の拡大とハイパーインフレーションへと導いた。高橋が暗殺されるまでは、しかしながら、1930年代の経済政策は注目に値する成功を収めたのであった。 金融・財政政策の協調のもう一つの重要な例は大恐慌時代のアメリカである。このエピソードはEggertsson (2005) でいくらか詳しく説明している。その論文から分かることは、アメリカで大恐慌を終わらせたものは、金融と財政の協調によるレジーム転換によって説明できる予想のシフトによって、その大部分を説明できる、ということである。 赤字財政と実質支出を同時に積極的に行った場合にどちらが相対的な重要性を持つか、という研究は今後の重要なトピックになるであろう。日本の近年の経験はカリブレートされたモデルで研究する価値がある。ここで論じたように、近年の日本でのデフレーションとデフレ期待の進行を見ると赤字財政がインフレーション期待に対して影響があったとは思えない。しかし、実質政府支出の増加がさらなる日本経済の悪化を食い止めた蓋然性は高い。私が提示したモデルは、実質政府支出の増加がなければ、デフレーションと経済の低迷は実際に日本で観察されたものよりもさらに悪い結果になったはずだということを示している。モデルは(経済の低迷に対応するための)日本の近年の実質政府支出の増加はもっと厳しい低迷に陥ることを防ぐ重要な役割を果たしたことを示している(もっとも、さらに支出を拡大した場合についてはオープンクエスチョンであるが)。しかし、需要喚起のための実質政府支出の積極度についての合意がないことは明記しておくべきことであろう。例えばKuttner and Posen (2001)は季節調整された実質政府支出の増加はよく言ってもわずかであったと論じている。さらにいえば、日本はここで示されたマルコフ解が要求する持続的に政策を実行しなかった(つまり、実質政府支出はゼロ金利にあるどのような状態においても増加させられなければならない)。このことは重要である。なぜなら、モデルが示唆する本質的に重要なことは現在の実質政府支出を増加させることではなく、未来のゼロ金利制約に嵌まったいかなる状況においても増加させるという予想だからである。よって、政府はデフレーション圧力がなくなるまで実質政府支出を増加させることを発表する必要があり、これはマルコフ均衡の分析によって示されたように信認される発表になるのだ。 7 Conclusion インフレーションは何十年もの間、貨幣的安定への主な脅威と看做されてきた。70年代の二桁のインフレーションの後遺症で、金融政策と財政政策を分離し、インフレーションの防止を第一の目的とする「独立した」中央銀行の手にその権限を与えようという動きが起きた。この展開は理論のレベルでの重要な貢献によって強化された。もっとも重要なものは裁量的な政府が「インフレーションバイアス」を持つことを示したKydland and Prescott (1977)とBarro and Gordon (1983) であろう。デフレーションが当たり前であった大恐慌時代の後遺症の中での政治的、理論的議論は極めて対極にあったことは忘れられがちである。ポール・サミュエルソンはデフレーションと戦う能力に欠けたために生じた不況を強調して大恐慌時代の連邦準備を「自らの独立性の虜」と評した。同じようにミルトン・フリードマンは「金融政策はセントラルバンカーに任せるには重要すぎる」と評した。本論文はデフレーション環境では財政と金融の協調にいくらかのメリットが存在することを示している。この協調の本質を見極める研究はこれから間違いなく重要なものとなるであろう。協調解は非協調解の結果に収束していくため、協調は一時的なもので十分効果的であることを指摘しておきたい 財務省との協調なしでも中央銀行は様々な方法---為替介入や民間資産の購入など---によって物価と産出を刺激することが出来ると論じる経済学者もいる。独立性のある中央銀行はこの論文での協調の元での赤字財政が示したような、未来の物価上昇へのコミットメントと同じような結果を、自身のバランスシートの拡大によって得ることができる(中央銀行は民間資産の購入や為替レートへの介入によってインフレーション予想を上昇させることができる。Eggertsson (2006)、Svensson and Jeanne (2004)を参照せよ)。その理由は次の通りである。独立した中央銀行は自己のバランスシートの価値に神経質である。なぜなら自己資本の毀損は、貨幣の増刷(これは望ましい水準よりインフレーションを高める可能性がある)または財務省による救済(これは独立性を失う結果を導く)によって賄われることになるからである。しかしながら障害は、原理的には未来のインフレーション率の上昇にコミットできるにもかかわらず、もし中央銀行が自己のバランスシートに過剰に神経質になると、サミュエルソンが指摘したような、自らの手足を縛る「独立性の虜」になってしまうことである。理由は、非標準的な公開市場操作で購入した資産は不確実な収益性を持ち、中央銀行がバランスシートの大幅な毀損と高いインフレーション率との間のトレードオフに直面する可能性が常に存在するからである。よって、仮にその他の政策を考えるにしても、財政と金融政策の一時的な協調は説得力のあるケースであると言えよう。
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中央銀行の金融政策 金融政策は、国が発行している通貨の量やインフレ状態をコントロールして「経済」という生き物の温度が熱くなりすぎたり冷えすぎたりしないよう適温を保っていけるように、各国の中央銀行が行うものである。 外国為替市場は、通過そのものを売買するマーケットなので、特に各国の政策金利の動向には非常に敏感になる。 通貨金利水準を決めることになる政策金利の変更は、金融政策の中でも最も重要なものである。それは、だいたい月に1回の割合で開かれている各国の中央銀行の審議委員による会議で決定される。 政策決定の過程には、すでに発表されているさまざまな経済指標や、それにもと基づく景気見通しなどが深く関わってくる。したがって、決定内容よりもなぜその決定にいたったかを示す「声明文」にマーケットは反応することが多い。 金融政策を決定した会議の議事録なども後で公表されるが、その決定過程などが話題となって、さらに為替レートが動くことがある。 米国の金融政策 米国では、連邦準備制度理事会(FRB)が開く連邦公開市場委員会(FOMC)が最高決定機関で、少なくとも何に8回開催される。FOMCへの信頼度は絶大なため、市場に寄せる関心はたいへん大きなものである。 87年から5期20年にわたってFRBの議長を務めたグリーンスパンは、市場を混乱させない名手といわれてきた。彼の発した意見が市場に誤解されて、自分の思惑とは違った方向に相場が動き出しても、その方向修正に必要なマイルド感あふれるコメントは絶品で、FOMCではなく彼が一人ですべてを決定していると思っていた人もいた。 いずれにしても米国の金融政策は、基軸通貨であるドルの価値を左右するため、為替相場では注目度がとても高いものとなっている。また、米国の中央銀行にあたるFRBは、日本銀行のように一つの銀行の下に各地域の支店があるという組織ではなく、12それぞれ独立した地区連銀の上にこれを統括する組織として存在している。 FOMCのめんばーは、7人の理事と各地域連銀の総裁5人の計12人で構成されている。ニューヨーク連銀総裁以外は、残り11行の総裁の持ち回りとなっているため、議決権のある地区連銀トップの発言には、日ごろからたいへん注目が集まることになる。 ユーロの金融政策 ユーロ圏の金融政策を決定する中央銀行にあたるものが、欧州中央銀行(ECB)だ。 ECBの総裁・副総裁および4人の理事で構成する役員会と、ユーロ参加国の中央銀行総裁によって構成される運営理事会で成り立っており、金融政策決定のための会合は月に1度開催される。 ユーロは複数の国が参加しているため、総裁・理事はもちろんのこと、参加国の中央銀行総裁の発言も注目されている。その中でもユーロに通貨統合が行われた1999年までは、ドイツの中央銀行が圧倒的に欧州経済をリードしていたこともあり、またECBの組織もこれを模して作られていることから、ドイツの経済指標がユーロの政策金利決定の最重要要因になっている。 しかし最近では、ECBの金融政策理事会は、参加国数も増え、また国内事情が異なるため、政策決定までの過程に統一感が欠ける面があるのも現状だ。 欧州は大戦後に何度もハイパーインフレを経験しているため、インフレに対する警戒感がたいへん強く、金利の引き下げには慎重であるという特質がある。さらに、ユーロを採用していないものの、旧植民地の国とつながりのあるイギリスの中央銀行(BOE)の存在も無視することはできない。 日本の金融政策 日本の金融政策決定会合は、月1回開かれる。もちろん決定機関は日本銀行が行う。 長期のデフレ経済に陥った日本では、超低金利の状態が10年以上続いてきた。赤字国債の発行など公的部門の債務は増大し、財政面からも金融政策をしばっているといわれている。 2005年から2006年には、日本企業の業績改善・株価上昇など日本の景気にも回復の兆しが見えていたため、金利引き上げのタイミングを探っていたが、米国のサブプライムローン問題の飛び火を受け、現在では金利引き上げのタイミングを逸したといえる。 日銀総裁の発言と呼応して、政治家や政府高官からのコメントが出てくるが、こうした金利動向をめぐる綱引きが、為替相場に微妙な作用をおよぼしてくる。 世界における円の地位は低下してきているが、為替市場への影響は現在も決して小さくはない。特に円高に対してのネガティブな反応として、日銀では過去に膨大な額の市場介入を行ってきた。市場介入とは、中央銀行などの通貨当局が自国通貨レートの安定を目的に外国為替市場で取引を行うことである。 2003年から2004年にかけて急激な円高が進んでいたため、日銀では1日1兆円を越す円売り(ドル買い)を行った。その額は35兆2564億円まで及んだ。この日銀介入は、通貨政策の任を担っている財務大臣が発令する。その結果にあたっては特に財務官の影響が大きいと言われている。溝口財務官は2003年から2004年に総額35兆円強の介入を行ったが、その後を引き継いだ渡辺財務官時代はまったく介入を行わなかった。(2004年6月~2007年7月) このように実弾を使っての介入は、市場でも絶大なインパクトがある。この介入があるからこそ、日銀総裁の発言も効果があるのだろう。今後も、急激な円高が進む局面では、日銀の動向をチェックしておく必要があるだろう。 FXの基礎知識 FX用語 FXのポイント 通貨ペア ファンダメンタルズ 経済指標 要人発言 政治問題や突発事項 他の金融マーケット トップページへ
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朝日新聞 金融政策 私の視点 増税へ緩和継続と第四の矢を 浜田宏一エール大名誉教授 左派こそ金融緩和を重視するべき 松尾匡・立命館大教授 日銀法改正でアベノミクス再起動 若田部昌澄・早大教授 さらに金融緩和を、国債まだ買える 原田泰・早大教授 日銀審議委員は金融政策の専門家で 本田悦朗・内閣参与 それでも2%へ追加緩和を 嶋中雄二・景気循環研究所長 リフレと再分配の二段構えを 経済評論家・勝間和代氏 量的緩和、偽薬のようなもの 翁邦雄・京大教授 景気を動かせるのは企業だけだ 日本総研・藻谷浩介氏 金融政策によるハイパーインフレ懸念を煽る朝日新聞の報道スタンス (葦)ハイパーインフレは……多賀谷克彦 2015/08/12
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アジア共通通貨権の可能性 目次 アジア共通通貨権の可能性 目次はじめに目的 ユーロについて アジアの動向 金融統合の測定方法 はじめに 目的 表1 本論文の目的は・・・←おかしい 金融統合についてなんとかかんとか ユーロについて アジアの動向 金融統合の測定方法
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ポスト・バブルの金融政策―1990年代調整期の政策対応とその検証 日本銀行金融研究所 内容(「MARC」データベースより) 「失われた10年」に金融政策が果たした役割とその限界…。日銀金融研究所エコノミストが試みた分析・評価の中間報告と、ゼロ金利政策をめぐる広汎な問題の論点整理。デフレ不況回避に対する金融政策の有効性等の論考も収録。 あれ、日銀さんの本だったの... 詳細 単行本 314ページ 出版社 ダイヤモンド社 (2001/04) ISBN-10 4478210357 ISBN-13 978-4478210352 発売日: 2001/04 商品の寸法 19.2 x 13.6 x 2.8 cm
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以下は Andy Harless というAtlantic Asset Managmentのチーフエコノミスト(Ph.D. Harvard)で、雇用と財政を中心としたマクロ経済学を専門とする研究者のTreasury s Monetary Policyを翻訳したものである。翻訳はnight_in_tunisia。 財務省の金融政策 何十年もの間、国債発行は民間投資を「クラウドアウト(押しのけ)」するから財政政策の効果は限定的であると多くの経済学者が論じてきた。「クラウドアウト」にはいくつかのバージョンがあるのだけど、そのうちの一つはこんな感じだ。 市中にはある一定の貨幣が流通していて、人々は他の資産とともに貨幣をポートフォリオの一部として保有している。貨幣は特殊な資産である。なぜなら市場での支払いに使える唯一の資産だからである。このため人々は資産のある一定の割合を貨幣として保有したがる。(簡単のために総資産のある一定割合で貨幣を保有するような都合のいい例を考えよう。) 政府が借入を行うと、経済に非貨幣的資産(この場合は国債)が導入される。この時、人々のポートフォリオにおける貨幣の割合が低下する。なぜなら人々の総資産が増加したのに貨幣はそのままだからだ。人々は代わりに他の非貨幣的資産を減らすので、民間部門は社債の発行や増資によって投資資金を調達することが難しくなり、その結果、民間投資が減少するってわけだ。 このシンプルな「一定割合」バージョンのストーリーでは100%のクラウドアウトが発生する。政府部門の債務の増加と同じだけ民間部門の非貨幣的資産が減少しなければ人々は自分たちのポートフォリオに満足しないのだ。資本市場で調達できなくなったのと丁度同じ金額だけ民間投資が減少するので財政支出は最終的な経済刺激効果はないというわけだ。 約30年前、ハーバードの経済学者ベンジャミン・フリードマンはあの「クラウドアウト論争」のきっかけとなる疑問を提起した。もし、人々が国債を民間部門の証券のようにではなく貨幣のように扱うとしたらなにが起こるだろうか?(結局のところ、国債は極めて流動的だ。そのまま支払いには使えないけれど、現金が必要な時にはいつでも換金できる。しかもだいたいいつでもどんな値段で売れるか予想はつく。少なくとも他の民間の資産よりはね。) だとしたら、政府が借金をすると自分のポートフォリオのうち「現金と現金のようなもの」の比率が高まる。(貨幣の比率に持ち上げるために貨幣に近くない)民間の証券を減らす代わりに「現金と現金のようなもの」の比率を下げるために民間の証券を買うだろう。公的債務は民間投資を「クラウドアウト」するかわりに民間投資を「クラウドイン」するんだ。 彼はまたいくつかの国債が他よりも明らかに現金に近いものであると指摘した。30年国債は金利が劇的に変動するので、もしかしたら社債にとても近いものかもしれないが、3ヶ月国債はかなり現金に近い。支払のために現金が必要ならばいつでも安心できる価格で売却することが出来る。ありがちなのは、政府が国債を発行すると人々のポートフォリオはより安全になるので、民間の証券の買い入れを増やす、減らすのではなく、ってことだ。それで、ベンジャミン・フリードマン教授は財政政策はマクロ経済へ影響を及ぼすことが出来ると結論づけた。財務省が短期国債を発行すればするほど、経済を刺激する効果は強くなるのだ。 僕がそれを初めて読んだ時(それはそれが書かれた約10年後で大学院で僕がベンジャミン・フランクリンに教わったときのことだ)、とても好奇心を刺激するアイディアだと思った。しかし、そのときはそんなに重要なことのようには思えなかった。その頃はアメリカのインフレ率はほとんどの経済学者が好むよりも高い水準だったし、ホットなトピックだったのはどうやって大きな刺激を与えるか、ではなくっていかに景気を悪化させずにインフレ率を下げるかってことだったのだ。もっと言えば、経済を刺激するにせよ抑制するにせよ通常の金融政策の効き目に疑念の余地はなかったのだ。国債発行はよく言っても場末の見せ物ぐらいでしかなかった。 時代は変わった。インフレ率はほとんどの経済学者が望むよりも低く、経済は最近の景気循環の上昇局面にあっても極めて悪い。ホットトピックはアメリカ経済を刺激するためにもっとも費用対効果が高く、政治的に可能な方法を見つけることであり、通常の金融政策はおよびでない。 そしていま、国債は単に「他の資産より現金に近い」資産ではない。ポートフォリオの視点から見ると,新たな国債発行の分について国債は現金そのものなのである。短期国債の保有者は金利がなくても喜んで保有している。喜んで国債を持っている人は貨幣で保有するときに得られるいかなる流動性や安全性にも価値を見いださないのだ。 人々は短期国債と現金とを同一視しているので、新たに短期国債を発行することは貨幣を発行することと全く同じ効果を持つ。実務的には金利がゼロである限りは短期国債はマネーストックの一部をなしている。アブラハム・リンカーンの絵が描いてある連邦準備発行券が5ドル札であるというのと全く同じ意味で、国債は100万ドル札なのである。国債を現金に交換する通常の金融政策は効果がない。なぜならそれはもう政策ではないからだ。それは単に同じものを交換しているだけなのである。 違う切り口で考えてみよう。財務省は貨幣と全く同じような証券を発行できるから、金融政策の主導権を握っているのは財務省なのだ。財務省が選択する政策としてなにを思い浮かべるとしても、僕らは財務省に責めを帰さなければならない。もし君が「出口戦略」や近い将来のインフレを心配するのなら負債を長期化させる政策をとった財務省を褒めるべきなのかもしれない。もし君が(僕と同じように)弱く潜在的にデフレ的な経済環境が続くことを心配するのなら、財務省の政策を批判するべきだ。国債の満期を伸ばすこと(訳注:increasing its maturities の適訳がわからない)は本質的には金融緩和が必要な時に引締めを行っていることになるのだ。 もちろん財務省は独自の考え方を持っている。役人は数年後には金利が上昇することを予想し、長期的に政府債務の負担を軽減するために現在の低い金利に固定することを望む。しかし僕はこの考え方のベースになっている仮定には懐疑的だ。 次の数年のうちに金利が上がるかな?もしかしたらね。でもそうだとしたら何で人々は長期国債を保有するなんてバカなことをするんだろう?札束握りしめてもっと良い話を待てばいいじゃないか。もしそれが将来の金利がどうなるかっていうだけの話だったらそれはゼロサムゲームだ。財務省が勝てば、国債保有者の負け。でも国債を買う人は負けるつもりで買ってるわけじゃない。財務省の役人は国債を買う人達よりもずっと賢いってことか? それリスクの問題だと言う人もいるかもしれない。財務省が現在の低い金利に固定するならば、費用の最小化はできないだろう(なぜならもっと低い短期国債の金利を諦めるわけだから)けど、費用の払いはより予測しやすくなる。財務省が費用を余分に払わなければならなくなるとしても、予期したよりも金利が上がるという最悪のケースに対する保険になる分、そのヘッジは費用に見合ったものといえる。 しかし金利の上昇って本当に最悪のケースなのかな?金利が上がるってことは、潜在成長経路に向かって徐々に収束して経済の回復が充分なスピードと連邦準備局と債券市場にそれなりの自信を与える牽引力を得ているってことでしょ。それは普通の市民としてヘッジが必要なような結果ではないと思うんだ。グッドニュースに対して保険を買いたくはないよ。むしろ逆の可能性、つまり回復が先細って金利が下落するって方にヘッジをかけたいなところだ。 アメリカ経済は潜在成長経路から遠く離れたところまではねとばされてしまったので、元の経路に復帰するまでには比較的早い成長と長い期間を必要とするだろう。(もしくは成長経路から遥かに遠くに離れたままになって潜在成長率そのものが著しく低下してしまうだろう。その場合、そこへ至までの長ーい間低い金利が続くことを覚悟しなければならないだろう。)迅速かつ持続的な成長が実現されれば連邦政府の収入は増加し、政府の「救済」投資は元を取れ、便益への支払は減少、財政赤字は縮小するであろう。上昇した金利のために政府はより多くの債務残高への金利払いを余儀なくされるが、経済が回復しているので、そうでないケースに較べて政府は少ない追加債務を累積して行くことになるのだ。だから、金利が上昇することが政府の財政にとってさえも「最悪のケース」なのかは僕には明白ではない。世間の興味に任せておこう。 また、満期を伸ばすことで財務省はデフォルトのリスクを軽減できるという意見もある。これによって政府の財務の信用を改善させ、満期を伸ばさない場合に較べて金利を低位にすることが出来るというわけだ。これがもし正しいならそれが良いことなのかは僕には分からない。民間部門がこれだけ苦しんでいる時には、財務省は政府発行の証券をもっとリスキーなものにして、それによって人々がもっと民間部門の資産に資金を投入するようにするべきなんじゃないだろうか。 いずれにせよ、それが正しいかどうかさえ分からない。財務省の担当者にしてみれば信用リスクよりもインフレリスクの方が遥かに大事なことだ。コントロールされることを拒否することでアメリカが債務を「インフレで吹っ飛ばす」インセンティブを財務省は増加させている。それは国債をより魅力的でないものにするかもしれない。もちろん既に僕も言った通り国債が魅力を失うことは必ずしも悪いことではない。なぜならそうすることで民間部門を助けることが出来るからだ。しかし、仮に財務省はもっと長い期間の国債を発行したならば、その便益は失われるだろう。その時には財務省は民間部門と競合するからだ。 ともあれ、僕は財務省がとるべき僕が思っている政策を他のみんなに同意してもらおうとは思っていない。けれども少なくとも今日のような状況の決断はこれまで浴びている以上に注目を浴びるべき重要なものであるということを何人かの読者には理解してもらえた、と思っている。僕はRajiv Sethi (Mark Thoma経由)を支持する。彼はこのことについて「誰もが政府債務残高の大きさについて終わることのない議論を続けているのに、その債務がどうやって賄われているかを誰も気にしないことはちょいと驚きである」と述べている。
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The Zero Bound on Interest Rates and Optimal Monetary Policy GAUTI B. EGGERTSSON MICHAEL WOODFORD オーバーナイト名目金利のゼロ下限が存在する場合における適切な金融政策はどのようなものであるかについては最近注目のトピックになっている。日本ではコールレート(アメリカにおけるフェデラルファンドレートと同等のオーバナイトキャッシュレートのこと)は1995年10月から50ベーシスポイント以下となっている。そして、ここ4年間ではほとんどの間ほぼゼロになっている(図1参照)。よって日本銀行はその期間中ずっと名目金利を引き下げる余地を持っていなかった。この間、日本の成長率は低迷したままで、物価は下落し続けた。これは金融緩和の必要性を意味する。しかし通常の救済方法---短期名目金利を低める---は明らかに利用不可能であった。マネタリーベースの積極的な拡大はこれらの状況下では需要を刺激する効果はほとんどなかったように見える。図1が示すように、マネタリーベースは1990年代始めからGDP比で2倍にもなった。 アメリカでは同時期にフェデラルファンドレートはわずか1%にまで引き下げられたが、回復の兆しは極めて弱い。このため多くの人々がアメリカも金利政策がマクロ経済の安定化ツールとして無効になってしまう状況に陥るのではないかと危惧している。他の多くの国も同じような問題に直面している。ジョン・メイナード・ケインズは金利がこれ以上の金融緩和のできない水準にまで下がってしまうという流動性の罠に陥った時にどのような政策が経済の安定化のために用いることができるか、また金融政策がこのような状況でわずかでも有効であるかを問うた最初の経済学者である。長い間、より理論的な好奇心の対象として扱われてきたテーマではあるが、ケインズのこの問いは現在緊急の実際的な重要性を帯びてきたが、それは理論家達にとって既になじみのないものになってしまっていた。 ゼロ下限に達した時、もしくはゼロ下限に達することが不可避の状況での政策のあり方への問いは金融政策への根源的な問題を持ち上げる。ゼロ下限を打つ可能性を認識することが、下限に達する以前の段階での政策のあり方を根本的に変えてしまう、と人によっては論じる。例えばクルーグマンはデフレを「ブラックホール」とよんだ。ひとたびデフレに落ちると経済はそこから抜け出すことができない、というのである。この流動性の罠での金融政策に対する悲観的な見方から導かれる結論は、通常の状況でも十分高めのインフレ率をターゲットにすることなどによってそもそもデフレ予想が形成されるような状況から遠く離れていられるような経済運営することが大事だ、ということだ。他方で、ゼロ下限に達した時でも金融政策は効果があると楽観的な論者もいる。例えば、デフレはブラックホールではないという議論がしばしばなされる。金融政策は短期名目金利のコントロールとは別の経路を通じて総支出に影響を与えることができるから、結果としてインフレ率に影響を与えることができる、というわけだ。このように日本とアメリカに関して多くの議論がある。金利の引き下げのできない状況でのマネタリーベースの積極的な拡大の優位性について、より満期の長い証券の購入を通じての長期金利を引き下げる試みについて、さらにはその他の資産の購入について、などである。 しかし、これらの見方が正しいとすると、中央銀行および貨幣経済学界における金融政策の運営に関する近年確立された考え方の多くに挑戦することになる。この考え方はオーバーナイト金利ターゲットの適切な調整を行うというものとして金融政策を捉えることを強調する。そして有名なテイラールールのような金融政策のための処方箋は通常これらの文脈で論じられる。実際、そのような政策が経済がデフレスパイラルに落ちることを未然に防げないのは政策のガイドとしてのテイラールールの決定的な欠陥だという議論もある。 同様に、流動性の罠に陥る可能性についての懸念は現在もう一つの有力な金融政策手法に対する深刻な異論として提出されている。それはインフレ目標である。インフレ目標から示される政策には目標とするインフレ率を達する(少なくとも、平均的には達する見込みがある)名目金利が実際に存在することが仮定されている。しかし、デフレの状況でゼロ金利下限に達したならば、これ以上の利下げが不可能なことから、ゼロより高いインフレ目標を実現することはできない、という議論である。このような場面でインフレ目標を設定する意味は果たしてあるのだろうか?日本銀行は頻繁にこのような議論を用いてインフレ目標を採用することを拒んできた。例えば日本銀行金融研究所所長の翁邦雄の「短期金利が既にゼロであるため、例えば2%のインフレ目標を設定したところで信認を得ることはない」という言葉が引用される。 我々は貨幣の伝達メカニズムを扱った異時的均衡モデルを使って、最適な金融政策を実現するために名目金利のゼロ下限のもたらす結果を考慮してこれらの問題に光を当てたい。我々のモデルは非常にシンプルなものであるが、基本的な問題点を明確にすることが出来ると考える。このモデルで我々はゼロ下限がインフレと実物経済活動の到達可能な均衡経路の真の制約となる条件と中央銀行による様々な資産の公開市場での購入が制約を和らげる範囲について考えることができる。また、ゼロ下限が存在しなかった場合や、最適政策の下でゼロ下限が問題にならないほどの実質ショックを考えた場合に最適と思われる政策に対して、ゼロ下限の存在を明示的に扱うことでどのように最適金融政策が変化するかを示すことができる。 結論の一部を先取りすると、少なくとも低インフレ時にある種の実質ショックを受けたときにはゼロ下限は金融政策の安定化能力に重大な制約を与えることが分かった。中央銀行が様々な種類の資産を買うことを通じてマネタリーベースを拡大する方法は、インフレと経済活動の実現可能な経路の範囲を拡大させるいかなるものも、ある(完全にcredibleな)政策へのコミットメントの下での均衡と整合的である場合には、ほとんど効果がない。 よって、重要なトレードオフは短期名目金利が常に非負であるという制約を考慮に入れて、短期名目金利の状態依存経路の他の選択肢がもたらす結果を考察することで明確になる。これによって、我々はゼロ金利は一時的に制約となり、その時にはゼロ下限がなかった時との比較において厚生の損失を不可避的にもたらすことがわかった。 それにもかかわらず、ゼロ下限制約は適切な政策が行われれば悲観論者が想定するものよりもずっと穏やかなデフレしかもたらさないことを示す。実現可能な均衡は代替的な金利政策を通じてもたらされる結果に対応しているものの、金融政策は金利をゼロ下限にせざるを得ないほどのショックが与える収縮的な影響を緩和する力がないというには程遠いのである。このような状況で最もダメージが少なくする方法のキーは経済がゼロ下限に制約されなくなり、中央銀行が再びグリップ力を取り戻した時にどのような金融政策がとられるかに関して正しい予想を形成することである。我々は、そのように予想されることが望ましい将来の政策についての予想を特徴づけるため異時的均衡モデルを使う。そして、信認を得られるとすれば制約付き最適均衡をもたらすであろう物価水準ターゲティングルールの形成について議論する。 我々の分析は同じトピックにおける数年前のクルーグマンの議論のいくつかの重要なテーマを発展させたものである。クルーグマンと同様に我々はゼロ下限を打った時にもたらされるショックの強さを決定する将来の政策に関する予想の役割を特に強調する。クルーグマンの初期の仕事に比較すると、この論文の最も重要な貢献はより完全な動学分析であろう。例えば、価格がゆっくりと調整されるという我々の仮定は、クルーグマンが単に一期間価格が固定されているという仮定に較べると、より豊かで(また、いくらかより現実的な)ショックに対する動学的な反応を調べることを可能にする。クルーグマンのものとは異なり我々のモデルでは、金利の自然率を引き下げるような実質ショックは、価格改定が平均で年に数回行われる想定においても、産出水準を単なる「一期間」ではなく数年に渡って潜在力以下に留める原因になる。これらのより豊かなダイナミクスは流動性の罠での経済の収縮を減少させることのできる政策コミットメントの性質についての現実的な議論にとっても重要である。我々のモデルではインフレを起こすためのコミットメントは将来のしばらくの期間も金利を低く保つという覚悟を必要とする。これに対し、クルーグマンのモデルでは、将来の物価に対するコミットメントは将来の名目金利の引き下げについては言及していない。また、ゼロ金利制約が効いている場面でのインフレ期待の醸成が中央銀行の長期的な物価安定へのコミットメントの信認の維持とどのように折り合いをつかられるのかについても上手く説明することができる。 我々の動学分析はまた、中央銀行の民間部門の期待の管理がゼロ下限の影響を和らげることができるようないくつかの方法を明らかにする。クルーグマンは名目金利がゼロにあってもインフレ期待を上昇させることで実質金利を引き下げることを強調した。しかし、このことは中央銀行が極めて間接的にしか影響を与えることができない変数に関する期待に影響を与える範囲でしか経済に影響を与えることができないことを示唆する。また、効果を与えることができる類いの期待はゼロにまで低下した名目金利の満期に対応した比較的短期的な視野においてのインフレに関係するもののみであることをも示唆する。このような解釈は期待を通じての実際的な効果についての懐疑へと安易に導く。インフレが短期的に粘着的であると考えられる場合は特にそうである。にもかかわらず、我々のモデルでは期待が複数のチャンネルを通じて総需要を刺激するのである。 まず、現在の総需要を刺激するものは単に短期実質金利だけではない。支出の異時点間の代替に関して我々のモデルは全ての期待短期実質金利が、つまりとても長期の実質金利が重要であることを示唆している。このはインフレ期待の醸成が、すくなくとも今後一年間は発生しないインフレであったとしても、期待名目金利がインフレ期待に対応して上昇しない限り、総需要にも極めて重要な影響を与えることを意味している。さらに、現在の水準だけでなく、将来の名目金利の経路への期待が重要であり、それによって長期間にわたって金利を低く保つことへのコミットメントが、現在の金利をこれ以上下げられないような環境においても、またインフレ期待が影響を受けないという仮説の下においても、総需要を刺激できるのである。中央銀行はその意思さえあれば短期名目金利の経路を完全にコントロールできるのだから、そのようなコミットメントが信任を得られないいかなら場合においても、それは中央銀行がそのコミットメントを履行できるかどうかということへの懐疑が原因ではないだろう。 我々のモデルのこれまでより豊かな動学は最適政策の分析にとっても重要である。クルーグマンは主に金融政策がゼロ金利制約を受けた場合に完全に不能であるかどうかという疑問を提示した。そして彼はインフレ期待を起こすことで流動性の罠においても実質経済を刺激する可能性について論じた。我々もこの結論には同意するものの、中央銀行が後々インフレを好まないことについて納得のいく理由があるという前提で、いかなる範囲においてそのような期待を醸成するのが望ましいのかという疑問には答えてくれない。またクルーグマンのモデルは極度に高いインフレをもたらすどんな理由でさも有害であると除外している限り、そのような問題を提起するのに適していない。それに対して我々の粘着価格モデルは(予期されていようが、いまいが)インフレは歪みをもたらすことを示唆するが、それはしばしば実際の中央銀行の関心事項であるとされる物価の安定と産出ギャップの安定との間のトレードオフの関係にある安定化政策の目的関数を正当化している。そのような環境において我々は最適政策がどのようなものであるかを明らかにし、ゼロ金利制約に呼応する形でより高いインフレ期待をもたらすような経路依存の政策へのコミットメントを確かに含むことを示す。また我々はそれが可能であると仮定した上で、そのような期待を形成することが最適となる範囲を示す。例えば、我々は、それが一つの均衡の可能性であるとしても、ゼロ金利を脱却するほどの非常に高いインフレにコミットすることは最適ではないことを示す。これはゼロ下限が最適政策コミットメントの下でも重要な制約であり続けることを意味している。 Conclusion 金融政策が短期名目金利がゼロ下限に制約されている状況を取り扱うために重要な点は将来の政策運営に関する期待の適切な管理にあるのだ、ということを論じてきた。「期待を管理する」ということは中郷銀行がその気になれば実際に何をするかに関わらず民間部門に信じて欲しいことを信じてもらえるように導けるということを意味しない。そうではなく、我々は中央銀行が望まないことを民間部門に信じ込ませるようなことはしない、ということを仮定しているのである。しかし、十分に予期されることによって便益をもたらす望ましいと考えられる一連の行動に対して中央銀行が事前にコミットできること、および、民間部門にそのようなコミットメントが信認されることが強く求められると我々は主張する。 貨幣伝達メカニズムのシンプルな最適化モデルを用いて我々は純粋にフォーワードルッキングな政策---すなわちそれは過去に起きた条件に反応するために将来の政策にコミットできないことを意味する---が、自然利子率の一時的な減少が起きた時にショックに対してとられた政策の如何に関わらず極めて悪い結果をもたらすことを示した。我々はまたコミットメントが信認されるという仮定の下での最適政策についても考察し、ショックが起きなかった時の水準よりもさらに高い物価水準まで物価を引き上げていくようなコミットメントが必要になることを示した。最後に、経路依存型物価水準目標ルールに基づくベース金利へのコミットメントが最適均衡を決定するという性質を持ち、経済に影響を与える多くの種類のショックとは無関係に、同じ形式の目標ルールがやはり最適政策となるようなルールの一種について述べた。 望ましい結果をもたらすための民間部門の経路依存型政策への予想の役割を所与とすると、中央銀行が民間部門に政策のコミットメントをシグナルする効果的な方法を発達させることが重要である。これについての本質的な前提は明らかに、中央銀行自身が己のコミットすべき経路依存的な行動について明確な理解を持っていなければならないということである。そのとき初めて中央銀行は政策についての対話が可能となり、民間部門に理解してもらいたいことの本質に沿って行動できるのである。単にルールに沿って政策を執行するということは最適な政策、もしくは最適に近い政策を実現するには不十分である。しかし、そこからしか始まらないのである。
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A.1 政策金利(CALL) A.2 長期期待政策金利(ZCALL10)と長期期待インフレ率(ZPI10) A.3 国内CGPI、米国PPIの長期期待インフレ率(ZPICGPDV、ZPIUSPPI) imageプラグインエラー ご指定のURLはサポートしていません。png, jpg, gif などの画像URLを指定してください。 imageプラグインエラー ご指定のURLはサポートしていません。png, jpg, gif などの画像URLを指定してください。 -
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チェーホフ関係論文一覧 〔内田健介〕 チェーホフ作品における家族像(1880-1882) チェーホフ作品における家族像(1883-1885) チェーホフの『父親不在』における家族像 〔浦雅春〕 チェーホフとヴォードヴィルの世界(1979) チェーホフの父親殺し(1987) 配達されなかったチェーホフの手紙(1989) チェーホフ-その「家」のクロノトポス(1989) チェーホフ・ノート 永遠に成熟を奪われた人々(1992) (スラヴ研究) 〔清水道子〕 チェーホフの短編小説の創作方法の発展 伝統的リアリズムから「象徴的リアリズム」へ 〈東京大学 Rusistika,Slavistika〉 〔木村敦夫〕 チェーホフ初期戯曲における台詞の交錯コミュニケーション空間の拡がり(1999) 『イヴァーノフ』におけるリヴォーフの「道徳性」とイヴァーノフの「反道徳性」(1995) チェーホフ劇におけるコミュニケーションの問題(博士論文要旨)(1995) 『三人姉妹』におけるコミュニケーションの問題(1992) 〔齋藤陽一〕 『かもめ』におけるモーパッサン(1995) 〔清水道子〕 『プラトーノフ』論 ヒーローの死あるいはアンチ・ヒーローの誕生(1995) チェーホフの短編小説におけるプロットと創作方法の発展 『魔女』(初期)・『女の王国』(中期)・『生まれ故郷で』(後期) の比較分析(1992) チェーホフの枠物語における創作方法の発展(1991) 『犬を連れた奥さん』の語りの視点 グーロフの内面描写の視点の変化を中心に(1989) 『犬を連れた奥さん』の語りの速度(1988) 〔楯岡求美〕 ポグレブニチコ演出チェーホフの『かもめ』について(1998) 〔中村唯史〕 チェーホフ『イオーヌイチ』(1992) 〔矢沢英一〕 【論文】チェーホフ劇の時間のモチーフ(1988) 〈むうざ〉 〔桜井郁子〕 【論文】『桜の園』のロパーヒンについて(2007)